2020年 12月13日(日) 9:00~12:00 に「諏訪原城探検ウォーキング」を開催します!
金谷にいるのならば、諏訪原城を知らないなんてもったいない!絶対に知っておくべき、国指定の史跡です!
今回は「かなや観光ボランティアの会」から、超ベテランの植野さんと大村さんのお二人がガイドをしてくださる予定です。この機会をお見逃しなく!ぜひ、ご参加ください!
武田 vs 徳川 激戦の地
歴史に詳しくなくても誰もが知っている戦国武将、「武田信玄」と「徳川家康」。その二人が激しく戦ったのがここ、大井川西岸(金谷側)です。
以下、概要を記述します。ちょっと長文です。
桶狭間で今川義元死す
1560年、桶狭間の戦いで今川義元が織田信長に討たれると、武田信玄と徳川家康は密約を交わします。「大井川東岸を武田が、西岸を徳川が治めよう」
1568年、武田信玄は弱体化した今川氏の駿府城を攻め、更に進軍して、大井川西岸の小山城(現:吉田町)を占領します。さっそく約束を破ったのです。
武田信玄、京都へ西侵す
徳川家康は松平真乗を遣わせて2年がかりで小山城を奪還しますが、1572年、武田信玄はおよそ3万人の大群を引き連れて駿府から京都に向かって西侵します。
小山城をあっという間に占領し、更に西侵します。高天神城(現:掛川市)は守りが固いので、軽く攻撃を加えただけで更に西侵します。
徳川家康は浜松城に籠城し、武田信玄を迎え撃とうとしますが、武田信玄はなんと!家康を無視して素通りしたのです!
慌てたのは徳川家康。何もせずに素通りさせたとあっては、織田信長に叱られます。
三方ヶ原の合戦
大急ぎで武田軍を追いかけましたが、実はこれが罠でした。武田軍は坂の上に陣を張って、徳川軍を待ち伏せしていたのです。まんまと罠にはまった徳川家康は、味方を何人も身代わりにして、命からがら逃げ延びたといいます。これが「三方ヶ原の合戦」です。
武田信玄、病死
大勝した武田信玄は更に京都へ向かおうとしますが、なんと!持病(肺結核?)が悪化し、死んでしまいます。
徳川家康はこれを好機と、武田の城を攻め取ります。
武田勝頼、諏訪原城を築城
武田信玄の跡を継いだ武田勝頼は偉大過ぎた父のせいで、家臣からの評判が奮いません。そこで、父信玄が攻め落とせなかった高天神城を攻略しようと考え、そのために作ったのが「諏訪原城」です。1573年のことでした。
武田勝頼の母の出身地である諏訪の守護神である「諏訪大明神」を奉った祠が城の名前の由来と言われています。
諏訪原城が徳川家康の手に
その後、高天神城を攻略することには成功しましたが、「長篠の戦い」で鉄砲の三段撃ち戦法の織田・徳川連合軍に武田の騎馬隊が大敗すると、いっきに勢力が衰え、1575年8月に諏訪原城を徳川家康に攻め取られてしまいました。
徳川家康は諏訪原城を牧野城(あるいは牧野原城)と改名し、堀を追加してさらに強固な城として、武田方の城を攻めました。
1581年、ついに高天神城が武田から徳川の手に渡り、1582年、小山城も武田軍自らが火を放って逃走したことによって、大井川西岸は徳川家康の領地となったのです。
武田勝頼、自害
そのわずか1か月後、武田勝頼は天目山の戦いで自害し、武田家は滅亡しました。
諏訪原城は武田勝頼が本気で作らせ、更に徳川家康が強固にするために手を加えたという、戦略上、超重要な城なのです。「諏訪原城」「高天神城」「小山城」の攻防が武田家と徳川家の雌雄を決したと言っても過言ではありません!
金谷にいるならば、諏訪原城を見ないのはもったいない!
ぜひ、解説してもらいながら、諏訪原城を探検しましょう!