静岡新聞 賛否万論のキュレーター(ご意見番)に選んでいただいての8回目の投稿が掲載されました。
今回のテーマは『不登校でも「学校」に行かせるべき?』
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日本の「学校」は高度経済成長期にはフィットしたかもしれません。教科書を作り、日本全国均質の学習内容を1人の先生が40人からの子どもたちに教え、それに着いてこられる人たちが日本のエリート層へ。着いてこられない人たちは労働者層へ。
しかし、その時代は去り、テストで高得点を取ることが必ずしも幸せに直結しないこと、全国民が必ずしも均質の内容を学ぶ必要はないことに、人々は気付き始めています。
これからの「学校」に必要なのは、自らの目標や課題解決のために学び行動する人、みんなが互いを尊重し合い、共に幸せを感じながら過ごせる社会を作っていく人を育てていくことだと思います。
不登校は、社会は変わったのに、変わることのできない「学校」によってどんどん生み出されてしまっているのです。
それにアンチテーゼを突きつけ、新しい学びの形を提案しているのがフリースクールです。子どもたちが好奇心を働かせながら生き生きと笑顔で学び、点数で人の優劣を比較するのではなく、みんな違ってみんないいというありのままが受入れられる学びの場を作ろうとしているのです。それは子どもたちに楽をさせてただ遊ばせておくのではありません。まずは、安心できる居場所を作ります。そして、自分の目標達成のためには困難なことにも挑戦し、それを乗り越えようと努力することを仲間や大人が寄り添って支えます。当然、基礎的な学力を身に付けることも必要になってきます。
日本や海外に既にそのような学びを実現している場所はありますし、そこを通ってきた人たちが大人になって社会で活躍もしています。「フリースクールに通っても、将来、社会では通用しない」というのは誤解です。
日本の「学校」には変革が必要です。それと同時に、多様な学びの場を選択できることが必要です。不登校の増加は、そのことを私たちに伝えようとしているのだと思います。
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実は、この原稿を書くまでに、何本か同じテーマで原稿を書きました。そして、どれを掲載してもらうかを検討して、一番当たり障りのないものを投稿することにしました💦
【子どもも教師も不幸編】<2本めの原稿>
今の「学校」は、子どもにも教師にも不幸です。
子どもたちは何のためにしているのかわからない勉強を、「これをやらないとお前の将来はないぞ」と脅されながらひたすら詰め込まれます。教師たちも、多過ぎる教科書の内容を、少しでも子どもたちが興味を持てるように工夫しながら、なんとか1年間で終わらせようと必死に努力しています。しかし、勉強についていけなくなる子が多数生まれ、教師もそれに気付いていながらも忙し過ぎて救い上げてあげられないという苦悩にさいなまれています。
教師の労働時間を減らすために、宿題の丸付けを学校では行わず家庭に依頼するところも出てきましたが、家庭でもどうやって丸付けしたらよいかわからずに困っています。そもそも宿題を出さないという学校も出てきましたが、では、子どもたちは何をしたらよいのか、そのサポートは残念ながら十分には行われていません。塾に通わせられる家庭の子はテストで点が取れますが、そうでない子との二極化が広がっています。塾に行っていない子が放課後を有意義に過ごせているかというと、全然そんなことはなく、ゲームか動画視聴に明け暮れてしまっています。ゲームや動画視聴が悪という訳ではありませんが、それしか選べないというのはよい状況ではありません。
それに対して、「そもそも学習を点数で比較するのはやめよう」「子どもたちは自分たちで学び成長していける力があると信じよう」というのがフリースクールの立場です。自分で興味の持てることを探して、自ら追究する学びに大人が寄り添います。ただ楽をして遊んでいるのではなく、自分の目標達成のためには、困難なことにも挑戦しそれを乗り越えようと努力します。点数で人の優劣を比較するのではなく、それぞれがみんな違ってみんないいという、ありのままの居場所を作っているのです。
私は、子どもたちを今の「学校」に通わせるよりも、むしろフリースクールに通わせる方がよいと思っています。しかし、それには受講料の負担が大きく、選択することができる人は限られます。家庭なりフリースクールなりに公的な補助が必要だと考えています。
【今の「学校」になど通わせるべきではない編】<1本めの原稿>
今の「学校」になど、子どもを通わせるべきではありません。何のためにしているのかわからない勉強を詰め込まれ、「これをやらないとお前の将来はないぞ」と脅しをかけられています。集団に従うことが善で、自分のやりたいことを主張することは我が儘だと叱責され、「社会に出たらそれが当然で、守れなければ社会で通用しない」と教え込まれます。勉強やスポーツ、芸術で上位の成績を取れる者はよいですが、そうでない者は「お前の努力が足りないのだ」と人格否定を繰り返されます。子どもたちはゲームや動画配信で気を紛らすか、自分より弱いものを見つけて嘲笑するか、自分の殻に閉じこもって外界をシャットアウトするしかありません。多くの子どもたちが傷付き、学業を終える頃には「勉強嫌い」「無個性」「無目的」「無気力」「無貢献」「無責任」な人を多数輩出しています。
しかし、本当にそうでしょうか?「学ぶことは楽しいこと」「社会とは個性を生かし合って作っていくもの」なのではないでしょうか。それを体現しているのがフリースクールなのです。自分が興味を持てることを探し、それを探究することで基礎的な学力も必要になります。大人はそれをサポートし、子どもたちの学びに伴走します。ただ楽をして遊んでいるのではなく、自分の目標達成のためには困難なことにも挑戦し、それを乗り越えようと努力します。点数で人の優劣を比較するのではなく、それぞれがみんな違ってみんないいという、ありのままが認められる居場所を作っているのです。フリースクールの出身者が大学では主体的に学び、「学校」の卒業者は受動的な学びに終始していると、大学の先生が証言しています。
今の「学校」は変わらなければいけません。覚え込まなければならない勉強を大胆に減らし、子どもたちが好奇心をもって取り組む探究的な学びにしなければなりません。海外では、それが教育の主流です。そのためには、子ども10人に対して教師1人が着けるように教師を増やす必要があります。
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どの原稿も主張したいことは同じですが、少しずつテイストを替えて、掲載していただいたものが一番マイルドなんじゃないかな?と思っています。
「賛否万論『不登校でも「学校」に行かせるべき?』に掲載していただきました!」への1件のフィードバック